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一番大切なものは

今日は、お友達のお宅での母親教室に参加して参りました。

講師の先生の一言一言が、じわ~ん、じわ~んと響いて来て、涙がぽろぽろ・・・・。

子供の教育について

“一番大切な点は、父や母が「いかに生きるか」ということである”

そして、生きる上で最も大切な宝ものは

“「魂の清らかさと、心の平和」である”

“「魂の清らかさと、心の平和」などといっても、今日食べるものもないような生活であったらそうは言っていられないのではないか、と思う人があるかもしれないけれど、

魂の清らかさと、心の平和があったら、今日食べるものに困るというようなことには決してならないのである”

(記憶の断片だけで書いているので、言い回しが違っていると思います。ご容赦を・・・)

それから・・・・




“今年の新年祝賀式にでかけられる前、谷口雅宣先生が清超先生に「皆さんに何をお伝えしたらよいですか」と聞かれた時に、

清超先生は「ありがとう、と伝えてください」とおっしゃったのですよね。

健康の回復を祈ってくださったいるだろう、信徒の皆さんにありがとう、の意味もあるであろうし、ただただ感謝、ありがとう、をそのまま生きていらっしゃるのが清超先生でいらしたのですね”


さらに、その前年、最後にご出席された、新年祝賀式では、こうおっしゃったそうです。

“「○○を思ったから駄目だ~!」と思うのをおやめなさい”と

思うことは、押し殺さなくてよい

それ以上に、“ただただ、毎日、あなた自身をあなたの家族を祝福しなさい”

それでいいのですね。



それから、

“生長の家を知っている人、知っていない人、この人は活動している人、いない人、できている人、いない人、そんな分け目はない、

ただただ、すべて、誰もが、絶対に神の子なのです。”

私はずっと、そこを越えられないでいました。どこかに自分と相手の間に線を引いている。

でも、お話しを聞いているうちに、そんな自分もない、ただただ神の子である私と、神の子であるあなたとで一杯になって・・・・いきました。




感想もいえないくらい沢山、沢山でてくる涙は、多分

時々心の片隅で、ぽつぽつと

「何で私ばっかり、こういう役が回ってくるのだろう」とか

「いいなあ、ちゃんと色々考えてお役を受けられる人は・・・・私は引き受けておいて、後からつらいだの何だのと潔くない」とか

「私って、卑屈なことを考えるなあ、実はちっさい嫌な奴だわ」とか

「しんどいなあ・・・もうやめたいなあ」とか

そんな、心にたまっていた、人にはいえない、でも自分でもみたくないようなつぶやきが、ぽろぽろぽろぽろと、こぼれて落ちていったのではないかな~と思います。

沢山泣いたら、とってもすっきり。

マイナスの感情は、

感動の涙と一緒に流してしまうのが一番すっきりするのかもしれませんね。

そうそう、結婚当初は、主人に、すがりついて泣いていました。

優しい主人はいつも、受け止めて下さいましたが、いつの日からか、




このままではいけないなあ、自分で昇華できるようになりたいなあ。主人の前では、笑顔でいられる妻でいたい

と思うようになり、




でも、しばらくするとたまってしまって、やっぱり泣いて、を繰り返し・・・

誰もいない時に、お仏壇の前で聖経をあげながらとか神想観中に泣けて仕方なくなると泣いて泣いて、

そんなふうに、鬱々とした気持ちを、心からはき出すこと事態を孤独な気持ちになってしまったり・・・

心はコロコロ

色々ですが、

みんな、それはそれでよくって、そのままで神の子で、素晴らしいのですね。

今は今の過程を味わって、よろこぼう!

無限に生長できるって、嬉しいなあ。

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信仰」カテゴリの記事

コメント

脱藩浪人様

私は、副単青委員長でしたから、地区委員会で、発言し、地区委員長を通して、意見をだすべきだと思い、そうしていました。
地区委員長を通して頂いた回答を聞いて、「意見を、聞く耳をもってはくださらない」と思ってしまったのは、私が未熟であったからだと思います。

脱藩浪人さんが個人の意見でないと言ったように、公の役職同士として、他の副委員長さんと直接お話しした時にも、言葉が互いに食い違ってしまい、その方の意見が、=全員一致の三役全員の意見だと思ってしまった点も、私の間違いだと思います。

もっと、他にできることがあったのではとも、後から思いました。

>議論もなしに受け入れられなかったのも事実

どの場面の話かわかりませんが、推測するに、発言をされた時に、脱藩浪人さんもそこに出席することが精一杯であったと思うのです。発言している相手が今、どのような状態なのか、それに答えうるような準備や余裕があったのか、わかっていて、発言されてはいないのでは?

改選後の評議員会などは、副になられた方々は、とにかく、青年会を何とかしていかなくては、と思っていただけで、今までの流れや、こうすべき、などという確固とした思いをもって発言できる状態ではなかったと私は思います。

脱藩浪人さんを同志だと思っていないから、受け入れないのではなく、言っていることに、答えられない、どう答えて良いかわからない、又は、どういうことがいいたいのか、を、はかりかねる。色々あるのではないでしょうか。


現象的には、相手も、自分も完全ではないのだから。こちらが、拒絶ととらえていても、相手は、そうとは限らないと思います。

シビアに反省しなくてはならない事は常に沢山あり、しっかり意見をもって、正しいと思うなら、必要と思うならちゃんと伝えるべきだとは思いますが、それと同じくらい、いえ、それ以上に、相手の善意、良さを、認める努力は大切だと、私はあの時学びました。


だから「あの時本当は私はこう思って言ったのに、そうとってはもらえなかった」とか、相手に対して「どうしてあんなことを言ったんだ。」と思うことは沢山あるけれど、

「それはそれで、その時そう言わなければならない事情があったのだ」とか、「あの時はあれで相手も精一杯だったのだ」とまず、受け止めるように努力しています。

そこで、相手を「こうだ」と自分の見方だけで見切ってしまったら、その後、理解しあう機会を自分から、切ってしまうことになるから。


脱藩浪人さんの思いは、私は公の場で、皆の前で発言されたことを、伺ったときと、改選後にお会いした時、と電話だけですね。お会いしたときは、貴方の気持ち聞くのが精一杯でした。私には私の言いたいこともありましたが、それを言っていては、貴方の言いたい事を理解できない。自分の言いたいことばかりになってしまう、と思ったので、とにかく聞かせてもらいました。つらいのは、私より貴方だとも思いましたので、反省したはずの私が、当時の意見をああだこうだ、言ったら自己矛盾しそうでしたし。

その後は、口でいくら議論しても、もう過去の蒸し返しになるし、実際、行動していく中で自分が生長していく他ない、乗り越えていくことだと私自身は思っていました。

今でも、改選の話しになると、あの時ああだった。ということになりますから、反省するべき所はし、次の行動の時、ひとつ立ち止まってから、行動に移すようになりました。

今でも、乗り越えたとはいえないかもしれません。またやってしまったのでは、と思うことも度々あります。

でも、私は、自分も他の人も神の子だと教えて頂いているので、それが真実だと思う。そして、それを信じて生きていきたい。そういう行動がしたい。いつかできるし、瞬間できている時もある(笑)と自分を信じてもいます。だから、相手も本当はそう思っていると思うのです。

人類光明化運動というのは、そこが全てだと思うから。

信仰に基づく光明化運動をしようとされているなら、こりごりだ、などと言わず、自分の意見は、絶対に心から消えることはないのだから、とりあえず、それを手から話して、相手の言葉を聞こうと、チャレンジしませんか。他の人のやっていることも、理解しよう、受け入れてみようと、観方を変えてみませんか?


組織運動を続けていたら、又別の悩みもでてきますが、あの時と重なるような場面になった時に、少しちがう言葉をだせる時もあります。


・・・長々とごめんなさい。

もう私に話しても仕方ないかもしれないのに、こうやってコメントをくださることを、ありがたいと思っています。

脱藩浪人さんは、尊敬しています。色んな意味で、できる人、やる人ですから。又別の面で、「そこは、変えたらいいんじゃないのかな」と思うこともあります。でもそれを、直接ぶつけて、嫌な思いをさせたこともありますから、「そこ」は言って欲しくないだろうなあと思うときは言わないように自主規制するようになりました。それがかえって、気持ち悪かったのかもしれないですね。

教区の掲示板も、ブログも、沢山のみている方がいます。それを意に介さず、自分の書きたいことだけを書くのは、ルール違反だと思うので、当然、一所懸命言葉を選んでいます。

嫌でなければ、直接、お話ししましょう。


投稿: うっち~まま | 2008年12月14日 (日) 17時03分

レスをありがとうございます。

口にでてくる言葉としての意見は違っているけれど、根本の思いは同じだと思っていました。引いているつもりもなかったです。でも、調和という状態にならなかったのは、どこかで、自分のこれが良い、という価値観を押しつけていた


これはあくまでも貴女の心の中のこと、であって、私の「口にでてくる言葉としての意見」のどこが違っているのかについて、私と直接議論することはなかったですね。会議などのオフィシャルな場においても。改選後も。教区の掲示板の然り。

それは貴女だけではなく20年以上も一緒に活動してきた、「同志」も同様です。以前にも書いたと思いますが、私には「同志」はいないと思っているのはその部分が大きい。

私個人ではなく、公の立場としての私の「口にでてくる言葉としての意見」は、確固たる信念に基づいて発していました。が、それが議論もなしに受け入れられなかったのも事実。だから脱藩した、と。組織活動は懲り懲りです。

今は信仰に基づいて、私にしかできない光明化運動を画策しています。

投稿: 脱藩浪人 | 2008年12月14日 (日) 15時04分

脱藩浪人様

お久しぶりです!お元気そうで何よりです。

そうですね。子ども達の存在はありがたいです。この子たちに恥ずかしくないように・・・・と思える親は、私達は、幸せですね。


>自分と相手の間に線・・・。
>その感覚が私はよく解りませんが、私に対して>も「引かれていた」のでしょうか?

私が「引いて」いるなあと自分を見ていて思うのは「生長の家を知っている人、と知らない人」にです。知らない方にお伝えすることに対する、苦手意識がなかなかとれないのです。

「こういうことを言っても、わかってもらえないのではなかろうか」と言葉を選んでいるうちに、言えないまま、伝えられないままだったりします。


線をひく、という表現は適切ではないかもしれないけれど、相手の方と、ひとついのちだという気持ちになれない時の、自分の心の様子をそのように書いてしまいました。

さて、脱藩浪人さんに対して「引いていたのか?」ですが、

口にでてくる言葉としての意見は違っているけれど、根本の思いは同じだと思っていました。引いているつもりもなかったです。でも、調和という状態にならなかったのは、どこかで、自分のこれが良い、という価値観を押しつけていたのだと反省しています。

自分から見た視点だけしかもてないで、相手の立場になっていないということは、線を引いている(本当の一体感ではなく、自分中心の一体感をおしつけている)ことになると思いますので、そういう点からみると、引いてしまっていたのかもしれないです。

自分がそのつもりがなくやっている、ことの方が加減をしないから、強いものになってしまいますね。


その結果については、結果じたいのとらえ方が違うでしょうし、様々な人の思いの中で起きた出来事ですから、こうだと言ってしまえることではないなと思っています。

コメント、ありがとうございます。

投稿: うっち~まま | 2008年12月14日 (日) 14時07分

お久しぶりです。

父や母が「いかに生きるか」
私は父親になった瞬間からずっと考え、祈り、行動してきたつもりです。

こんな私でも子供にとっては親。
だからこそ、子供に対して恥ずかしい生き方だけは絶対にしたくない。
これが、私の教育の原点です。

自分と相手の間に線・・・。
その感覚が私はよく解りませんが、私に対しても「引かれていた」のでしょうか?
あの、改選での出来事はその結果だったのでしょうか?

仮にそうであったとしても、私は以前よりも一層深く「いかに生きるか」を深く考えることができました。

まだ「ありがとうございます」とは言えませんが(苦笑)。

投稿: 脱藩浪人 | 2008年12月13日 (土) 01時21分

しじみ様

感動だなんて、こちらこそありがとうございます。

しじみ様でも、そんな風に思われる時がありますか。う~ん、嬉しい(コラコラ)

そっかあ。やっぱりみんな、あるんですねえ。

自分だけじゃないとわかっているつもりが、いつのまにか忘れてしまうのでありました。

でも、生長の家のお陰で、そこにどっぷりしないで、ホンモノを思い出させて頂ける。思っても、それを何ヶ月も何年も、思い続けないで、いられる。本当にありがたいです。

投稿: うっち~まま | 2008年12月12日 (金) 22時14分

うっち〜まま様
感動に心ふるえる記事をありがとう〜。

「私ばっかり、、、」最近家族のいろんなことで、そればかり口にししていた私だったの。

すとんときました。


投稿: しじみ | 2008年12月11日 (木) 12時34分

シコク嫁様

シコク様~!
一緒に泣いてくださって、ありがとうございます。
シコク嫁様のブログを読ませて頂きながらも、よく泣かせて頂いておりまする。(^人^)

そうなんですね。おんなじなんですね。
自分だけじゃない。
何か、幸せです。

色々ありながら、キラキラしててステキです。


投稿: うっち~まま | 2008年12月11日 (木) 11時56分

うっち〜さん、素直なアナタの素直な記事に一緒に泣きました。私も涙ポロポロ。
おんなじだよ、私も。みんなおんなじだと思うよ。
>「何で私ばっかり・・」みんな、おんなじ気持ちなんだと思う。

でも>>ただただ、すべて、誰もが、絶対に神の子なのです。。。。そうだねぇ〜素晴らしいねぇ。
泣いて笑って気付かせてもらいました。ありがとう。心から感謝。

投稿: シコク嫁 | 2008年12月10日 (水) 09時21分

yutaka☆hajime^^さん

「思った」ことは、消えてなくなったようにみえるけれども、実はそうではないのですものねえ。

神様は不幸を演じる自由さえ、与えてくださったいる。

私達は、ほんっとうに幸せなんですねえ。愛されていますねえ。


TAさん

お久しぶりです。(いつも?)TAさんは昔の私をよくご存じですので、亀の歩みのような心境をお見せするのはちょっぴりお恥ずかしいですが、そんな風に言って頂けると嬉しいです。

この日の派遣は、いつぞや、TAさんが本部(だったかしら~?)で会われた、名東区のH・N先生だったのです。

年齢を重ねるごとに、不要なものがとれていくので嬉しいとおっしゃっていました。
楽しみですぅ~(すっかりそうなれるつもりです)


投稿: うっち~まま | 2008年12月 9日 (火) 14時47分

 いつも真剣に、純粋に、精一杯生きておられて素晴らしいと思います。

-TA

投稿: TA | 2008年12月 9日 (火) 07時29分

『想念は、意志よりも強し。』

心の表面に顕れた「思った」は、その瞬間から消えて無くなります。
でも、それが心の中で繰り返され、『想い』に昇華されてしまうと、コトバの創化力を得て、具現化に結びついてしまいます。
さらに、『念ずる』ことにも繋がり、『想念』と化すと、さらに祈りへと昇華されます。

そして、この内容が、神意に叶うものであれば、他を幸福にし、自らも幸福になります。
しかし、神意から外れていると、単なる『迷い』ですから、不幸と見える現実を創り出してしまう??

実は、これ、完全に神意から外れてないのです。
あらゆる病気も不幸も、神の子である人間一人一人を、天国浄土へ導いて下さる神様の無限の愛なのです。
神様の愛は、常に積極的な大いなる力で、僕ら一人一人に対して、分け隔て無く平等に、幸福になるように働きかけて下さっているモノなのです。

僕は、最近、やっと気づきました…。sun

投稿: yutaka★hajime^^ | 2008年12月 8日 (月) 23時55分

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